元気な高齢者、でも本当は・・・

母は今年。90歳になった。

4年前、年齢を考慮して母の近くに住むようになった。東京から大阪に戻ってきた。

私も若くないので(笑)生活環境が変わることはリスクが大きく、しばらく仕事も見つからなかった。

そんな生活の背景がありながら、母のことが気掛かりと戻ってきたけれど、普段の生活は問題なく出来ている母にとって、私は転ばぬ先の杖だけど、年寄り扱いされたくないい母は、杖を使いたくない様子(苦笑)

誰かに頼ると衰えてしまうから、まだまだ独りで暮らしたい。と、独り暮らしを継続中。

私の休みに母を訪ね、用事があってもなくても、招かれる時も招かざる時も。。気掛かりなので訪問する。

 

時より衝突が生まれ始め

何故こんな些細なことで気分の高揚が生まれるのだろう?母の言動に振り回される日常が始まる。

母の好きなことを努めて日常の中から探り当て、促してみる。

喜んでくれることもあれば、反発されることもある。その反発がとても激しいことがあり、私は途方に暮れていた。

優しさがお節介と捉えられ、負担になると反発され、私の存在が否定された状況が生まれる。

4年のうち、後半は特に自分の中での葛藤の日々だった。

協力のなかった他の兄弟への思いも募り始め、私自身の状態が悪くなる。

 

色々なことを経て、かかりつけの先生に相談する機会を家族が得てくれた。

 

しっかりと毎日を送っている母は「認知症」であると診断される。

 

理不尽なまでの私との行き違いの生じた会話は「認知症」であるがゆえ招いたことだとわかる。

 

少しずつの変化は家族には気づけない。。

 

とは言え、本人にはその事実は告げてはならない。それは鬱病を誘発するからだそうで、気づいても何もなかったように普段は向き合うことが大切。

そんな家族を身近にみながら、シェアハウスという共同住宅の在り方を考える。

現存機能を保ちつつ、本人のペースを見守りながら暮らす生活。理想なんだろうと思う。理想に終わらせずに現実に近づけたい。

 

画像:ギボウシは母が好きで、庭でたくさん育てています。

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